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1. ミスタープロ野球(前)〜ルーキーイヤー
1992年プロ野球シーズン終了間際、 この年まで巨人の指揮を執っていた 藤田監督に代わり長嶋茂雄が監督になる事が決まった。 当時小学生だった僕からすれば 藤田監督のお陰で斎藤雅樹や桑田真澄や槙原寛己の3本柱を中心とした 投手王国が出来ているのに何故監督を代える必要があるのかとわからなかった。 又昔、選手名鑑で巨人の年毎の順位を調べたら6位が1回と 5位が1回でありその時の監督が誰であったか父に聞いたら長嶋さんだと言った。 そんな事もあり自分は余計周りが次の監督の事で大騒ぎしている理由 がわからなかったのである。 結局、監督として長嶋さんの成績は(第二次政権)巨大戦力もあり、 9年間で優勝3回日本一2回Bクラスは1回のみと第一次政権 のようにはならなかったが巨大戦力で何故毎年優勝出来ないのか? と采配に疑問が出たり、又巨人の生え抜きが育たない原因の 1部分となってしまったのも事実である。 だが、雑誌を見たりテレビの現役時代の長嶋茂雄を見ていた人の話や 映像を見る限り名選手であったのは事実である。 とゆう事もあり、ここからは現役時代の長嶋茂雄の話を少ししよう。 昭和33年、背番号3の3塁手がオープン戦から結果を残し 開幕スタメン3番サードを勝ち取った。 開幕の相手は当時国鉄(現ヤクルト)のエース、後の400勝投手、 金田正一である。 この開幕戦の結果は有名で長嶋が4打席連続三振に終わったのだ。 ただし、試合後金田は長嶋の事を空気を切り裂くバットの音 が聞こえた事からプロ野球界を背負う人物になると語った。 ちなみに、4三振したが長嶋は12個のストライクの内見逃しストライクは2球のみで、 いずれも若いカウントであった。 これだけを見ても長嶋はどんなに失敗があっても常に 積極的にプレーする選手であった事がわかり、 又監督時代にも積極的なプレーを行っ て失敗した選手には怒らなかった事から この精神は続いているのがわかる。 このプロの洗礼を糧に長嶋はこの年3割を残しホームラン王と 打点王をのタイトルを取り新人王を獲得した。 ルーキーイヤーの昭和33年、 背番号3の3塁手は3番を打つ事が多く(後半からは4番に定着)、 結果3割と30盗塁以上を残した。 これを見ると3が多い事に気付いたと思うが 3がついてないのがある。 ホームラン数である。 30本に1本足りず29本であった。 しかも実際は30本のホームランを打っていたのだが ホームベースを踏み忘れ結果はファーストゴロとなり 29本になったのである。 これが世にも有名な長嶋ベース踏み忘れ事件である。 何とも長嶋さんらしいエピソードであろう事か。 このベースを踏み忘れた事によりトリプル3を逃したが (全て3揃えも) この事が後の劇的なドラマへの伏線とわかるのは 約35年後の事である。 次回、中編に続く |